2008年の「群馬青年ビエンナーレ」で、いちばん奥まった部屋に松岡圭介の作品があった。遠目にもただならぬ気配が感じられた。
高さ150cmほどの下半身が分厚い人体様のフォルムが上半身を折るように屈んでいる。近づいてみるとそれは、全身に、磁石の作用による鉄粉をまとっていて、鉄粉は磁力でそこに吸い寄せられた瞬間の小さな放射状や網目のような、あるいは植物の被子のように毛羽立っていて、蠢く気配が漂っていた。
松岡圭介は1980年宮城県生まれ。東北芸術工科大学で彫刻を学び2003年卒業後、大学院で引き続き学び制作し、いくつかの公募展でも受賞してきた。
展覧会を決めてから、大学や大学院時代の作品歴を見せてもらったが、蠢くひとがたにいたるまでのいくつかの作品には、陰と陽、凹と凸、輪郭と全体などの反転を幾度も繰り返してきた跡がうかがわれ、その振れ幅の大きさ深さに感応した。
美術表現にインスタレーションという手法が多くとられるようになってから、 彫刻というジャンルで、彫って刻んで生み出されるものは、はるか遠いところに置き去りにされたように見えなくなってしまった。そんな潮流のなかで、松岡圭介の人体に出会った。
作品には、小さな人体の輪郭に見える細い枝のムーブメントをもったものや、両腕と下半身だけの漏斗状の異形なひとがた、半割りの片割れの石膏型を影のように背負った小さな人体像など、ひとがたの虚実、ひとがたの陰影、ひとがたの皮相に揺れながら、ひとがたを見つめ続けて来た経緯が見えてきた。
人体こそは、あらゆる生きものの中で、飛びぬけて異形だ。動物、植物、昆虫、魚類、粘菌類etc。異形なものは、進化や進歩や文化や芸術や差異や苦悩までをうみだしていく。
松岡圭介の磁石がつくる、磁場の鉄粉の棘のゆらぎが、私の視覚に突き刺さってくる。かたちづくろうとする、そぎ落とそうとする、払い落とそうとすると、磁力は変幻しながら、私に反応するようにたち現れてくる。
松岡圭介は2007年から、映画にもなった「a elephant man」をモチーフに「人間にとって表皮、表面とは、存在そのものではないか」を問い続けているという。
私たちは瞬きのあいだに、表皮と内実への悲嘆と希望の点滅のなかで呼吸している。松岡圭介のひとがた磁力線は、画廊空間で向き合う私たちのどんな姿をあらわにするのだろうか。ひとがたを見て、作品から強く見られる展覧会になるのだろう。